世界情勢に関心があり、自分が、重要だと感じたり、自分の意見を少しずつ、混じえながら書こうと思います。

東ローマ帝国と西ローマ帝国

西ヨーロッパのキリスト教の浸透
帝政初期に帝国領内のユダヤ属州で生まれたイエス・キリストの創始したキリスト教は、徐々に信徒数を増やしてゆき、2世紀末には帝国全土に教線を拡大していた。ディオクレティアヌス退位後に起こった内戦を収拾して後に単独の皇帝となるコンスタンティヌス1世(大帝。在位:副帝306年-、正帝324年-337年)は、当時の東帝リキニウスと共同で、313年にミラノ勅令を公布してキリスト教を公認した。その後もキリスト教の影響力は増大を続け、ユリアヌス帝による異教復興などの揺り戻しはあったものの、後のテオドシウス1世(在位:379年-395年)のときには国教に定められ、異教は禁止されることになった(392年)。394年には、かつてローマの永続と安定の象徴とされ、フォロ・ロマーノにありローマの建国期より火を絶やすことのなかったウェスタ神殿のウェスタの聖なる炎も消された。

ウェスタ神殿

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395年、テオドシウス1世は死に際して帝国を東西に分け、長男アルカディウスに東を、次男ホノリウスに西を与えて分治させた。これ以後帝国の東西領域は再統一されることはありませんでした。

 

西ローマ帝国

ゲルマン人の侵入を止めることができなかった。


西ローマ帝国
ディオクレティアヌス帝以降、皇帝の所在地としての首都はローマからミラノ、後にラヴェンナに移っていた。

 西ローマ帝国ゲルマン人の侵入に耐え切れず、しまいには、476年ゲルマン人傭兵隊長オドアケルによってロムルス・アウグストゥルス(在位:476年)が廃位され滅亡したことをきっかけに、486年ゲルマン系新興国メロヴィング朝フランク王国のクロヴィス1世などが、西ローマ帝国の地方長官をつとめ、西ローマを統治しました。

東ローマ帝国(395年-1453年)は、首都をコンスタンティノポリスとし、15世紀まで続いた。中世の東ローマ帝国は、後世ビザンツ帝国あるいはビザンティン帝国と呼ばれるが、正式な国号は「ローマ帝国」のままであった。この国は古代末期のローマ帝国の体制を受け継いでいたが、完全なキリスト教国であり、また徐々にギリシア的性格を強めていった。
東ローマ帝国は、軍事力と経済力を高めてゲルマン人の侵入を最小限に食い止め、またいくつかの部族に対して西へ行くよう計らった。西ローマの消滅後は唯一のローマ帝国政府として、名目上では全ローマ帝国統治権を持った。

 帝国の再建が何度があった。5世紀のレオ1世・12世紀のマヌエル1世・6世紀のユスティニアヌス1世

その後、ユスティニアヌス没後は混乱と縮小の時代に入り、7〜8世紀にかけイスラム帝国スラヴ人などの侵入により領土が大幅に縮小した。

 その結果、テマと呼ばれる軍閥

      公用語ギリシャ語化(7世紀)

      一連の出来事は帝国の性格を変化させ、ヘレニズムとローマ法、正教会を基盤とした新たな「ビザンツ文明」とも呼べる段階に移行しました。


9〜10世紀頃には安定期に入り、再び積極的な対外行動をとる。帝国の領土は再び拡大し、11世紀初頭にはバルカン半島アナトリア半島の全域、南イタリア、シリア北部等を領有した。しかし、その後はイスラムや西欧に対して劣勢になり、13世紀に十字軍により首都コンスタンティノポリスを占領された。13世紀末にコンスタンティノポリスを取り戻すも、以後は内乱の頻発もあり、オスマン帝国等に領土を侵食されていった。
滅亡
1453年4月、オスマン帝国の軍がコンスタンティノポリスを攻撃。2ヶ月にも及ぶ包囲戦の末、5月29日城壁が突破されコンスタンティノポリスは陥落した。最後の皇帝コンスタンティノス11世は戦死し、東ローマ帝国は滅亡した。残存するモレアス専制公領やトレビゾンド帝国も1461年までには掃討された。