世界情勢に関心があり、自分が、重要だと感じたり、自分の意見を少しずつ、交えながら書こうと思います。

ローマ帝国

ローマ帝国・・・紀元前8世紀中ごろにイタリア半島を南下したラテン人の一派がティベリス川(現:テヴェレ川)のほとりに形成した都市国家ローマであります。

ラテン人・・・ギリシア人と同時期に、イタリア中部に南下したイタリック語派に属する古代民族です。

 ローマの歴史、・・・当初は、エルトリア人の王などがいたが、紀元前509年に7代目の王であったタルクィニウス・スペルブスを追放してから、パトリキ(貴族)による、共和政が布かれました。その後、クァエストル(財務官)などが、圧倒的な権力を一極集中させたが、しだいに、プレブス(平民)の反発を喰らい、十二表法やリキニウス・セクスティウス法の制定により対立は緩和されていき、紀元前287年のホルテンシウス法制定によって身分闘争には終止符が打たれました。

十二表法・・・紀元前451年、古代ローマで慣習法を初めて成文法にしたもの

リキニウス・セクスティウス法・・・古代ローマの法律

ホルテンシウス法・・・平民会の決議は元老院の承認が無くとも、ローマの国法とされるという法律

共和政政治・・・国のリーダーや王が決定権をもっておらず、政府などが権力を持ち政治を行うことです。



都市国家ローマは次第に力をつけ、中小独立自営農民を基盤とする重装歩兵部隊を中核とした市民軍で紀元前272年にはイタリア半島の諸都市国家を統一、さらに地中海に覇権を伸ばして広大な領域を支配するようになった。紀元前1世紀にはローマ市民権ができあがり、ローマ帝国ができあがりました。

 

その後、紀元前世紀から、2世紀にまでにポエニ戦争が3回おこり、そのことが原因で貧困格差ができあがり、イタリア半島では兵役や戦禍により農村が荒廃し、反面貴族や騎士階級ら富裕層の収入は増大、貧富の格差は拡大し、それと並行して元老院や民会では汚職や暴力が横行、やがて「内乱の一世紀」と呼ばれた時代になるとマリウスなど一部の者は、武力を用いて政争の解決を図るようになりました。

 その結果、共和制は徐々に崩壊していきました。
ポエニ戦争は主に、フェニキア人の住んでいたカルタゴとローマの間の地中海の覇権争いのことです。

 

 

 

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フェニキア人=カナン人であり、カナンはイスラエル人到来前には民族的に多様な土地であり、「申命記」によれば、カナン人とはイスラエル人に追い払われる7つの民の1つであり、イスラエル人と混住し通婚した。ヘブライ語カナン人から学んだものです。ちなみにフェニキア人の居住地は、地中海や死海ヨルダン川・シリア・イスラエルの近くでした。

 

紀元前44年にカエサルが暗殺された後、共和主義者の打倒で協力したオクタウィアヌスマルクス・アントニウスが覇権を争い、これに勝利を収めたオクタウィアヌスが紀元前27年に共和制の復活を声明し、帝政が復活しました。


その後、アウグストゥスの皇帝就任とユリウス・クラウディウス家の世襲で始まったローマ帝政だが、ティベリウスの死後あたりから、政治・軍事の両面で徐々に変化が起こりました。世襲制に対する、反乱がおこりはじめ、ヨルダン川などから、カリグラやネなどの皇帝がその一例です。

 その結果、結果、ユリウス・クラウディウス朝からフラウィウス朝の僅か100年の間に、3名の皇帝が軍隊によって殺害され、2名が自殺に追い込まれ、不自然な形での皇帝の交代が頻発するようになりました。

 
43年にはクラウディウス帝によってグレートブリテン島南部が占領されて属州ブリタンニアが創設されるなどしました。

グレートブリテン島南部・・・アフリカ大陸とイギリス・西ヨーロッパの南部あたり・・・

 

初代皇帝アウグストゥスの時代に常備軍の創設や補助兵制度の正式化、通貨制度の整備、ローマ市の改造や属州制度の改革(元老院属州と皇帝属州の創設)などを行い、帝国の基盤が整えられました。

 

 その後、

14年~70年アウグストゥスが没→だティベリウス→カリグラ→クラウディウス→ネロ→四皇帝(皇位継承戦争が発生した。4人の皇帝が次々と擁立されたことから、この時期を四皇帝の年とも呼ぶ。)→ユダヤ人の東方の反乱→ウェスパシアヌス


ドミティアヌスが暗殺されたのち、紀元1世紀の末から2世紀にかけて即位した5人の皇帝の時代にローマ帝国は最盛期を迎えた。この5人の皇帝を五賢帝という。
ネルウァからコンモドゥスまでの7人の皇帝の時代を、ネルウァ=アントニヌス朝とも呼ぶ。
またこの時代には、法律(ローマ法)、交通路、度量衡、幣制などの整備・統一が行われ、領内には軍事的安定状態が保たれていたと思われるが、地中海の海上流通は減退が見られ軍隊の移動も専ら陸路をとるようになる時期だった。また軍隊と繋がる大土地所有者が力を持ち、自由農民がローマ伝統の重税を避けて逃げ込むケースが増え、自給自足的な共同体が増加した時期でもある。

 

96年 - 98年 ネルウァ
元老院から選出される。後継者にトラヤヌスを指名した。
98年 - 117年 トラヤヌス
「至高の皇帝」。最大領土を現出。ダキア、アラビア、アルメニアメソポタミアアッシリアを占領して属州を置き、帝国領土は東はメソポタミア、西はイベリア半島、南はエジプト、北はブリテン島にまでおよんだ。
117年 - 138年 ハドリアヌス
パルティアと和平してアルメニアメソポタミアアッシリアから撤退し、東方国境を安定させる。全属州を視察。内政の整備と、ブリタンニアハドリアヌスの長城に代表される防衛体制の確立に努めた。
138年 - 161年 アントニヌス・ピウス
内政の改革や財政の健全化に努めた。
161年 - 180年 マルクス・アウレリウス・アントニヌス
「哲人皇帝」。ストア哲学を熱心に学んだ。晩年は各地の反乱や災害やゲルマン人ら異民族の侵入に悩まされ、各地を転戦、陣中で没した。
161年 - 169年 ルキウス・ウェルス
マルクス・アウレリウスと共同皇帝、パルティア戦争に従事。その後の蛮族の侵攻の最中に食中毒で病死。
180年 - 192年 コンモドゥス
マルクス・アウレリウスの嫡子、ローマ帝国で二例目の直系継承を果たしたが悪政の末に暗殺されネルウァ=アントニヌス朝は断絶した。

 

 


マルクス・アウレリウス・アントニヌス→実子コンモドゥス帝(192年に暗殺)→、193年には5人の皇帝が乱立し、五皇帝の年と呼ばれる混乱が起きた。この内戦を制したセプティミウス・セウェルスによって193年にセウェルス朝が開かれた。セウェルス朝は軍事力をバックに成立し、当初から軍事色の強い政権であった。

 

212年、カラカラ帝の「アントニヌス勅令」によって、ローマの支配下にあるすべての地域に、同等の市民権が与えられた。これによって厳しい階級社会だったローマ社会における、非ローマ市民の著しい不平等(裁判権の不在、収穫量の1/3に上乗せされる1/10の属州税など)は多少なりとも緩和されたが、これによってローマ市民権の価値が崩壊し、政治バランスが激変して、以後長く続く混乱の一因となった。また、それまで属州出身の補助兵は25年勤め上げるとローマ市民権を得ることができたために精強な補助兵が大量に供給されてきたが、市民権に価値がなくなったために帝国内の補助兵のなり手が急減し、さらに不足した兵力はゲルマン人などの周辺の民族から補充されたため、軍事力の衰退を招いた
235年、アレクサンデル・セウェルス帝が軍の反乱によって殺害されたことでセウェルス朝は断絶し、以後ローマ帝国は軍人皇帝時代と呼ばれる混乱期に突入していく。


パクス・ロマーナ(ローマの平和)により、戦争奴隷の供給が減少して労働力が不足し始め、代わりにコロヌス(土地の移動の自由のない農民。家族を持つことができる。貢納義務を負う)が急激に増加した。この労働力を使った小作制のコロナートゥスが発展し始めると、人々の移動が減り、商業が衰退し、地方の離心が促進された。
284年に最後の軍人皇帝となったディオクレティアヌス(在位:284年-305年)は混乱を収拾すべく、帝権を強化した。元首政と呼ばれる、言わば終身大統領のような存在の皇帝を据えたキメの粗い緩やかな支配から、オリエントのような官僚制を主とする緻密な統治を行い専制君主たる皇帝を据える体制にしたのである。これ以降の帝政を、それまでのプリンキパトゥス(元首政)に対して「ドミナートゥス(専制君主制)」と呼ぶ。またテトラルキア(四分割統治)を導入した。四分割統治は、二人の正帝(アウグストゥス)と副帝(カエサル)によって行われ、ディオクレティアヌス自身は東の正帝に就いた。強大な複数の外敵に面した結果、皇帝以外の将軍の指揮する大きな軍団が必要とされたが、軍団はしばしば中央政府に反乱を起こした。テトラルキアは皇帝の数を増やすことでこの問題を解決し、帝国は一時安定を取り戻した。
ディオクレティアヌスは税収の安定と離農や逃亡を阻止すべく、大幅に法を改訂、市民の身分を固定し職業選択の自由は廃止され、彼の下でローマは古代から中世に向けて、外面でも内面でも大きな変化を開始する。
ディオクレティアヌスが305年に引退した後、テトラルキアは急速に崩壊していった。混乱が続く中、西方副帝だったコンスタンティヌス1世が有力となり、324年には唯一の皇帝となった。コンスタンティヌス1世専制君主制の確立につとめる一方、東のサーサーン朝ペルシアの攻撃に備えるため、330年に交易ルートの要衝ビュザンティオン(ビザンティウム。現在のトルコ領イスタンブール)に遷都して国の立て直しを図った。この街はコンスタンティヌス帝の死後にコンスタンティノポリス(コンスタンティヌスの街)と改名した。コンスタンティヌスの死後、北方のゲルマン人の侵入は激化、特に375年以降のゲルマン民族の大移動が帝国を揺さ振ることとなった。378年には皇帝ウァレンスがハドリアノポリスの戦い(ゴート戦争)でゴート族に敗死した。

 

 

キリスト教の浸透 
帝政初期に帝国領内のユダヤ属州で生まれたイエス・キリストの創始したキリスト教は、徐々に信徒数を増やしてゆき、2世紀末には帝国全土に教線を拡大していた。ディオクレティアヌス退位後に起こった内戦を収拾して後に単独の皇帝となるコンスタンティヌス1世(大帝。在位:副帝306年-、正帝324年-337年)は、当時の東帝リキニウスと共同で、313年にミラノ勅令を公布してキリスト教を公認した。その後もキリスト教の影響力は増大を続け、ユリアヌス帝による異教復興などの揺り戻しはあったものの、後のテオドシウス1世(在位:379年-395年)のときには国教に定められ、異教は禁止されることになった(392年)。394年には、かつてローマの永続と安定の象徴とされ、フォロ・ロマーノにありローマの建国期より火を絶やすことのなかったウェスタ神殿のウェスタの聖なる炎も消された。WIKI参照