世界情勢に関心があり、自分が、重要だと感じたり、自分の意見を少しずつ、交えながら書こうと思います。

中国 歴史 おおざっぱにまとめ

五代十国時代

五代十国時代(ごだいじっこくじだい)907年~ 唐王朝の滅亡後、宋(そう)の第2代、太宗(たいそう)によって中国統一されるまでの時代 特徴としては、華北に5つの王朝がありました。 "朱全忠(しゅぜんちゅう)は後梁(こうりょう)という国を建国します。しかし…

中国 誕生

清(しん)に対する、不満が少しずつ溜まり、1894年にハワイで興中会(こうちゅうかい)という革命結社が誕生します。中心人物は、孫文(そんぶん)です。 そんな中、日本とも交流が強まっていきます。1905年には、中国同盟会という組織ができ、清朝を倒すため…

清 中国 

モンゴル勢力の「元」もフビライ=ハンが没すると、徐々に弱体化していくことになります。そこに現れたのが漢民族の朱元璋(しゅげんそう)でした。 1368年・・・ この朱元璋という人物が、紅巾の乱(こうきんのらん)の指導者の1人として頭角を現し、後に…

宋の時代

五代十国(ごだいじっこく)時代・・・唐(とう)王朝の滅亡後(907年)から宋の第2代、太宗(たいそう)によって中国統一されるまでの時代。907年~960年 五代十国(ごだいじっこく)の名前の由来・・・「五代」華北に興亡した5つの王朝、さらにはその他の地方でも節度…

モンゴル人 中国 侵攻

907年に唐が滅ぼされると中国は「五代十国時代」に突入します。 その後、960年に、趙匡胤(ちょうきょういん)[元・五代十国時代の国、後周(こうしゅう)の軍人]が"宋"(そう)を建国 979年趙・・・匡胤の死後、第2代の太宗のとき、中国統一が叶いました。 節度…

隋・唐  時代 

隋(ずい)589年~618年 楊堅(ようけん)が大興(だいこう)に建国 隋の第2代皇帝、煬帝(ようだい)・・・大運河を建設 長江(ちょうこう)~淮河(わいが)~黄河(こうが)~北京(ぺきん) 科挙・・・筆記試験を、官僚・長官・要職に就くのに課すこと 618年・・・煬…

中国 異民族 侵攻

晋(しん)が南匈奴(みなみきょうど)に滅ぼされ、南匈奴が逃げ、中国の南部に東晋(とうしん)を建国しました。 その頃、中国北部に、中国以外からの、人種が侵攻してきました。 羌(きょう)チベット系遊牧民 匈奴(きょうど)チュルク系,モンゴル系 鮮卑(せ…

中国統一 三国時代 終わり

呉(ご)軍を撃退し諸葛亮(しょかつりょう)の北伐(ほくばつ)を防いだ魏(ぎ)の司馬懿(しばい)は、その軍功と権力から周囲に警戒されるようになる。この時期に遼東(りょうとう)には公孫(こうそん)氏勢力が独立していたが、呉と結んで魏に対抗するようなそぶりを…

曹操 三国時代

216年、曹操は自ら軍を率いて孫権征討に赴き、翌217年、孫権は曹操に降伏した(濡須口(じゅしゅこう)の戦い・2回目)。219年、劉備は自ら漢中に出兵して、守将(まさしゅ)の夏侯淵(かこうえん)を討ち漢中を奪った(定軍山(ていぐんざん)の戦い)。この地を獲…

三国時代 中盤

208年、荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)が死去すると、曹操は南方を征服しに行きました。 また、その頃、荊州では劉表の後継者争いが起こっており、長男の劉琦(りゅうき)を支持する側と、次男の劉琮(りゅうそう)を支持する側に分かれていました。結局…

三国時代 中期 

193年、袁術(えんじゅつ)が正式な兗州(えんしゅう)の長官の金尚 元休(きんしょう げんきゅう)を伴って曹操(そうそう)の兗州を攻めたが、曹操に大敗しました。193年、劉虞(りゅうぐ)は公孫瓚(こうそんさん)を攻めるが、公孫瓚に敗れ、捕らえられて処刑された…

三国志 中盤

189年に皇帝の霊帝(れいてい)が亡くなる。その後継を巡って何皇后(かこうごう)→皇帝の妻・皇后が生んだ劉弁(りゅうべん)と、霊帝の母の董太后に養育された劉協(りゅうきょう)の間で後継争いが起こるが、何皇后側(かこうごう)が勝利し、劉弁(りゅうべん)が…

三国志のはじまり・・・

漢の問題点として、創立当初から、政治の都合、地方豪族の力が強すぎ、また、皇帝の后に一族の娘を送り込むことで外戚となるシステムがあっため、中央集権を維持することは非常に困難でした。159年に外戚の梁冀(りょう き)が宦官の力を借りた桓帝(かんてい)…

中国の歴史  

紀元前221年ごろ、秦(しん)という人物が、中国大陸に統一国家をつくりました。また、商鞅(しょうおう)という人物が、その100年ほど前に、郡県制を導入し、中国国内に「県」「群」ができました。そして、その地域を治める官僚が登場し、徴税、徴兵そして…